はくまいびより

スクフェスとか、アニメ、読書、映画、ライブの感想とか、気が向いたときに更新します

箱推しと言う考え方

 箱推しという考え方がある。『グループ丸ごと推してます!』ということだ。かくいう昔、私も箱推しの時代があった。しかし、ある時を境に『箱推し』という概念を真剣に考えて、今、推しを作るときはちゃんと一人を選ぶようにしている。し、こんなこと言うとあれだけど、自分の中で順位は作っている。今回はこの『箱推し』、という考え方について、自分の意見を書きたいと思う。

 

〇きっかけ

 昨今アイドルコンテンツや、アニメもライブコンテンツが増えてきた。ファンとの交流をする中で、箱推しですという話を聞くことがある。いやSNSのbioで箱推し宣言している人もいる。なるほど。

 私はブログの記事を見ればわかるようにラブライブシリーズを好んでいる。昔(昔と表現することに若干の悲しさがあるが)μ’sの時代、私には箱推しの時期があった。と言うか、自分の中では箱推しだと思っている時期があった。(昨今のサンシャインスキーの人たちの中にはμ’sをご存じない方がいるって聞いたことがあるんですがさすがに都市伝説ですよね…?)

 メンバー全員分のフィギュアを集めたり、カード類に手を出したり…。いやあ、とにかくお金はとんでいった。今思うとあの時期よくお金がもったな…。

 そんな私であったが、箱推しに疑問を抱き始めた案件がある。何か。それは、ある商品の発売だった。というかこれはもはや事件だ。事件だった(私の中では)。

 そう……PSvita用ゲームソフト、通称『スクパラ』の発売である。当時箱推しだった私は、もちろんこの作品も3作(ユニット別に3パターン出ていたのだ)すべて、初回限定版で原価(計33000円くらい)で買った(蓋を開けて驚愕である)(蓋を開けて、と表現したが実は1つに関しては蓋すら開けてない)。一度でもやったことがある人ならわかると思うが、これはかなりの暴挙であり愚行である。今当時の自分に対して言うことがあるとしたら、「ばーか」である。運営の思うつぼってレベルじゃないぞ。(自分をバカにしているだけであって、同じく3作買った人に対しての発言ではないです。少なくとも自分の行動を振り返ると、バカだったなぁと思うだけです。酒の肴にしかならない。笑ってください)

 この件を受けて、当時私は箱推しのつらさを思い知った。これは間違いなく自分の中で何かが変わりはじめたきっかけだった。運営の出すものをなんでもひょいひょいと購入するのではなく、運営を疑い、ちゃんと考えて購入するようになった。し、この時に気づいたのが、自分の中に、若干のキャラの優劣が存在していることだった。3作買った私は、まずPrintempsから始めた。というのも、Printempsに小泉花陽さんがいたからだ。この時点で、今後の自分が決定されることになる。

 

 箱推しとは、かなり難しいことだと思う。ガチャなり一番くじなり、どのキャラが来ても、推して参らなければならない。いや、本当にすごいことだと思う。そんなことを繰り返していくうちに、あるキャラを引いたとき私は思ってしまったことがある。

「ああ…。このキャラかぁ…」

 この感情は、まぎれもなく自分の中でキャラ間に優先順位がある証拠だった。

 これを自覚してから、私は箱推しという考えを改めた。

 し、箱推しを辞めて、この時期からキャラ一人を推すことにした。いや、断じて資金が尽きたからではない。断じて。いやほんとに。

 

〇箱推しの個人的な定義

 思うに、箱推しとは全てのキャラを(ある程度)平等に推さなければならないと考えている。どこぞのハーレムかよ的な考え方だが、私としてはそれがしっくりくる。キャラの中で推しの度合いに重みづけがあるならば、「あなたの推しは箱ではなく、重みづけしているそのキャラではないのですか?」と言うのが正直に思っていることである。攻撃的な意味は全くなく、単純な疑問としての発言だ。

 「○○推しですが、でもまあ箱推しですね~」という意見もたまに聞く。これに関してはまあわかる。嫌いな存在がいないのであればそれは成立する。ただし、箱推しの中でも推していない存在がいる場合は、それは成立しない。そのキャラを推していないなら、それは箱ではない。「箱ーそのキャラ」推しである。まあ面倒くさいからまとめて『箱』につっこむというのであれば、はあ、としか言いようがないけど。

 私が一番信頼できるのは、推しが定まっている人である。それは本物だ。特にキャラと演者の推しが不一致の人は信頼の塊でしかない(ちなみに私は基本的に一致している)。つまりちゃんと個々をみて、演者として、キャラとしてそれぞれ推しているということだからだ(ただそういう人は、ライブ会場でどっちの演者を見ればいいか分からないという苦悩があるらしい。大変そうだ)。実際、推しが定まっている人とは会話がしやすいし、その視点から見た推しの存在とは、自分からでは絶対に見えない景色であり、話をしていて楽しい。その人も本当にそのキャラが好きなんだなぁという真剣さが伝わり、ぶれない姿勢にスタンディングオーベーションしている(心の中で)。

 

 一番恐ろしいと思っている存在が、「キャスト含めて箱推しです」と宣言している人だ。とんでもない大物である。懐がでかいっていうレベルじゃない。一体何者だというのか。

 余談だが、最近私が一番戦慄したのが(というか最近のラ運営のやり方には戦慄してばかりだが)、演者のブロマイドを販売し始めたことだ。はっきり言って何を言い出したのかとっさに分からなかった。だがしかし、そういうことなのだ。ファンはそれを求めているし、運営はそれに応えているだけ。そういうのが求められる時代が来ている、というだけであり、私の考え方が古いだけなのだろう。それは認める。

 しかしキャスト含めてって…一体どういう考え方なのか、古い考え方な私では、理解するのに抵抗がある。先述したように、箱推しである以上、その人には平等にその人たちを推してほしいところはある。が、キャスト含めてって…そんなこと可能なのか?キャラクターと演者を同程度支えられる度量があるのか?あるのだとしたら、それはすごいと思うし素直に尊敬する。(ただそれは傲慢というものではないだろうか…?)

 

〇箱推しとはつまり?

 箱推しという考え方を突き詰めていくにしたがって、私は一つの結論に至った。これは間違いであろうと、私の中ではこれこそが自分でたどり着いた一つの真理なので誰になんと言われてもこの考えを改めるつもりはない。所詮個人的意見の一つである。

『箱推し、すべてのキャラを等しく推すということは、つまり誰も推していないことと同じなのではないか?』

 厳密には違う。が、私としてはそうおもわざろう得ない。

 その人は個人を見ていない。グループを一つの概念とし、グループとして推す。それは正しい。が、その場合中身に思い入れをしてはいけないと思うし、外から箱を見ることしか許されないのではないか?としたら結局、だれも推していないのでは?それか、そんな自分に気づいていないだけなのでは?

 箱推しを否定するわけではない。条件を満たすのであれば、箱推しは大いに結構。ただ、もしその箱の中に自分の中で順位があるのであれば、箱推しを名乗るのは考え直してもらいたい。撤回まではしなくてもいいので。

 

〇変動する推し

 と言っても、状況に応じて推しが変動する人はいるだろう。まあそれはしょうがないし、逆に変動するくらいどちらのキャラも好きなんだろうと思うと、なるほどそのキャラたちが本当に好きなんだなと好印象を抱くときもある。また、推しが決まっていない状態で暫定で箱推しと言うのは構わないと思っている。傍から見れば、昔の私がそうだったわけだし。

 ただ、自分の都合で推しが変わるっていうのはどうなんだ…。私が一番恐ろしいと思ったのが、ライブ終了後に聞こえた会話だ。

「いやー○○ちゃん推しだったけど、あんなん(目が合った的な)されたら推し変してまうわー、これからは◇◇ちゃんに推し変してくわ」(記憶が正しければ、ラブライブサンシャイン2ndライブツアー神戸公演DAY2だったはず)

 耳を疑ったが、おそらくこんな例ほとんどないだろう、レアケースと言ってもいい。

 人である以上、それはしょうがない現象であることは理解している。否定できない。こんなこと言うとあれだけど、見返りのある人に対して投資するのは基本として成立してなにもおかしくない。見返り(?)があったから、それに対して投資(?)する。それだけの話だ。だが、それでいいんか、という感情はある。頭では理解できるが、感情が理解できていないのだ。岡清先生の『人間の建設』という本から言葉を借りるのであれば、「人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうに納得しない存在らしい」とのことだ。ただそれだけの話。(ちなみにこの話の肝は、「演者の行動により、キャラクターの推しが変動してしまった」という点だ。ゆえになおさら私の中で「それでいいんか」感が強い)

 箱推しに対しては、頭でも感情でも理解できていないというのが現状なのだけれど……。かつて箱推し宣言していただけに、なおさら…ね。

 

 

〇箱推しを辞めて思ったこと

 私は箱推しを辞めてよかったと思うことは何個かある。コンテンツを追っていくにあたり、充実感を得るようになった。いままではふわふわしていたが、地盤が固まったことにより、そのキャラがより魅力的に見えるのだ。まあ単純接触効果かもしれないが(というかたぶん単純接触効果だが)、そういうことも含めて、推しは居たほうがいい、と提唱したい。

 それと、資金の面でもだいぶ助かるようになった。し、そのキャラに今まで分散していただけの愛(ここでは愛と言う名の金だが)を注げるようになったので、充実できた。また、後ろめたさが無くなった。いや、なんだそれと思うかもしれないけど。割とこれは心持として個人的に重要で、気持ちよくコンテンツを追えるようになった。

 結局昔の自分は、箱推しと言う言葉に逃げて、誰か一人を真剣に推すことを恐れていた臆病者だったんだなぁと、今はなおさら思います。昔の自分と会話してみたいですね。自分がそうってだけで、箱推しの方が全員そういうわけじゃないのは重々承知してます。というかこんな態度だったのは自分くらいでしょう。

 

〇箱推し

 もし箱推しだという人がこの記事を読んだのであれば、どう思うか分からない。というかそもそもこの記事誰に向けた記事でもなく、SNSじゃ文字数足りないから書いているに過ぎない(あと手術直前で何かしてないと落ち着かないってだけである)。が、もし読んだのだとしたら、少しだけ考え直してみて欲しい。本当にそのグループが好きか。グループとして好きか。中にいる人に重みづけが行われていないのか。

 別に箱推しでいることを否定しない。箱推しだからと言って何も恥じることはない。ただ、箱推しを辞めて、個人を推すようになると、かなりの充実感が得られるようになりました、という経験談の紹介だ。

 順位をつけるのをおこがましいというかもしれないが、申し訳ないが私は食べ物の好き嫌いが激しいタイプの人間なのだ。サガだ。どうしようもない(というか好き嫌いが無いってそれ、それ好きな食べ物もないじゃん…と常に思っているような人間だ。好きがあるから嫌いがあるし、嫌いがあるから好きがあるんじゃないのか)。でも、誰だって無意識のうちに対象に重みをかけているはずだ。それを意識的に表面化しているに過ぎない。(桜井画門先生の漫画:亜人で言うところの永井圭的な意見だけど。)

 私にできるのはせいぜい、1人のキャラクター、あるいは1人のキャストの人生を追いかけることくらいだ。多くても2人くらいか。それを支える(?)ことくらいしかできない。自分は一人しかいないし…。でも、そうやって追いかけているキャラが成長していく様を見ていくと、とても嬉しいし、応援しててよかったと思う。終わった時も多分、充実感と共に、心の底からおめでとうを言える気がする。

 まあ言ってしまえば、わざわざ推しなんて作らなくてもいいとは思います。こんなこと言う人もいるくらいだし。

 でも、追いかける相手がいるって、いいことですよ。是非。

 

 駄文ですみません、読んでいただきありがとうございます。

 それでは。